日々の営み

家事とは毎日毎日同じことの繰り返しで、その点でシーシュポスに課せられた罰のようなモノだけれども、その中に美しさを見出せれば苦にならないんだろうなと思う。


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炊き込みご飯を作ろう、と思いたった。
少し前の自分にとって炊き込みご飯とはスーパーに売っている"炊き込みご飯の素"を使ってしか作れないモノだった。
ところが、よしながふみの「きのう何食べた?」を読んで、意外と簡単に出来ることを知った。

普通に米をとぎ、いつものように二合なら二合分の水を加えたあと、醤油と酒を1:1の量加えればいい。二合ならおたまの約2/3くらい。そしてキノコ類だとか根菜類だとかを適当な大きさに切ってぶち込んで炊く。
今のところ醤油と酒の量さえ押さえておけば、失敗したことはない。

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具材も、「入れ過ぎかな?」くらいがちょうどいい。
炊けば米が膨らんで、量的にいい塩梅になる。

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今日は魚が食いたかったので、タラの切り身を買ってきた。
本当は一匹まるごと捌きたかったが、どうも良さそうな魚が無かった。
今日は早めの時間に行ったので、いい魚があるかなと思ったんだけど、、、、
魚が欲しければやっぱり市場にいくしかないらしい。

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白菜の浅漬けも作ってみた。

味噌汁は小松菜とカブで、味噌汁に使いきれなかったやつは、これもまた浅漬けにした。これは明日にでも食べる。


本当に家事ってもんは面倒くさいもんで、今日部屋を綺麗にしても、一週間後にはまた汚くなる。

明後日親が来るらしいので、とりあえず綺麗にはしておくが、今の俺には「親に怒られるから」以上の理由が、掃除をすることに対して、ない。

掃除をすることに喜びを感じられる様になったらなぁ、、、と思うが、多分、「やらされてる」感がある内は無理だろうと思う。
掃除という仕事を「自分のモノ」にすることだと思う。

家事のなかでかろうじて料理は「楽しい」と思えるので、ズボラでだらしなくて、後先考えない行き当たりばったりの無軌道な生き方をしながらも、どうにか料理を橋渡しにして、「ちゃんとした」生活には首の皮一枚でつながってるカンジだ。いや、本当はもう崩壊してるんだけども、料理を橋渡しにして、どうにかちゃんとした生活を築きあげられないかと模索している。

「料理は楽しい」というのは、料理のレベルはそこまで高くないとしても、自分にとっては疑い様のないことで、「なぜ部屋を清潔に保たなければいけないの?」「なぜ毎日規則正しい生活を送らなければいけないの?」「なぜ生きなければならないの?」というような疑問を持たなくてすむ数少ない場所だったりする。

「なぜ?」という疑問を持った時点で、本心ではもはやその行為は行いたくないと感じているのだと思う。
だから、「なぜ?」に道徳や世間一般で言われているところの理由を説いたとしても無意味なのだと思う。
唯一の解決法は、「なぜ?」が出てこないほど、強度のある「実感」を得ることだと思う。

「実感」というのは、一朝一夕で得られるモノではないと思う。試行錯誤する過程と、言語化の過程が必要だと思う。
「自炊は節約になるから」「自炊が出来れば異性にもてるから」などといった単純な利害を超越した何かを発見し、自分のモノにすることだと思う。

利害なんてものは突き詰めていけば無意味でしかない。節約をしてどうする。異性にモテてどうする。「なぜ?」を繰り返していけば、無意味に落ち着く。

岩を山頂に押し上げてはまた落っことしまた山頂に押し上げる、罰の無意味さを超越するには、岩が転がり落ちて行く時に感じるしばしの解放感に充実感を見出し、麓に下って行く時の風景に美しさを見出すしかないのだと思う。